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【名句155】貞観政要より | |
【意】 | 君臣の出会いは水魚のようなものであるから、両者が呼吸を合わせる努力をすれば、国内は安定する。 |
【解】 |
人間は器の修行が大切です。器の修行の初歩段階は我慢器量の養成です。自分の意のままにならない時の抵抗力を付けることです。「可愛い子には旅をさせろ」とありますが、世の荒波に揉まれて我慢の耐久力を付けることです。 我慢器量が欠けると批判精神が先行します。批判は「批評し判定をすること」ですが、往々にして自己の我慢の無さを認めたくないために批判に走ります。自分の内側の批評をゼロにして、外側の相手を100%批判してしまうから、自己反省による成長が皆無となります。このようになると組織内でも折り合いが悪くなります。組織としても不満の多い者を登用する訳にはいかないから、本人はますます批判地獄に陥ってしまいます。この種の人は転職や転属による心機一転をして、自分の我慢器量を鍛え直す必要があります。 上の者が正しい生活や気遣いをすれば、下の者は自然に見習うものです。ポイントは2つで「隠れた部分の生活の充実」と「時々に言うべきことを言う気遣い」です。 |
【名句156】論語 より | |
【意】 | 教えにより人間は誰でも立派になるから、元々教えの対象になるかならないかの区別は存在しない。 |
【解】 |
福沢諭吉も「教育の要は、人生の本来に無きものを造りて、之を授くにあらず。唯有るものを、悉く皆発生せしめて遺すことなきに在るのみ」といいます。 唯有るものとは、何でしょうか。釈尊は「奇なる哉、奇なる哉。一切衆生皆悉く如来の知恵徳相を具有する。只、妄想執着なるが故に証得せず」と述べ、才能を備えている人間自身が才能の所有に気付かないことを驚き嘆いています。 教育に類なしといいますが、教育を施す対象が身近なほど難しいものです。石川達三も「凡そいかなる教育にも増して困難であるのは、夫が妻を教育することである」と述べています。身近な人(家族・クラスの学生・職場の部下など)になるほど、日常生活を通して背中で教えなければなりません。だから教える者の「隠れた部分の日常生活」の確かさが、大きな要素になります。このような意識が教育者に備われば、大原学園の学園長青木靖明先生が言われる「教育とは、これ共育なり」となり、教育者の仕事の有難さが倍増するのです。 |
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